こむら潤
ものがたり
①:尼の下町育ちのおばあちゃんっ子
1975年8月、お盆のさなかにナニワ診療所で産声をあげました。お医者さんも休暇をとって帰ったあとに産気づいた初産の母、病院には見習い看護師さんが当直でいるだけ。「先生が来るまで産んじゃだめですよ!」と言われ、ドタバタの中で生まれたそうです。
尼崎市は園田地域、額田という鉄工所など町工場がある街に暮らしていました。その頃、父はペンキ屋に勤め、母はポッポ保育園で保育士として働いていましたから、わたしは同居の祖父母に、3歳まで面倒を見てもらっていました。尼の下町育ちの「おばあちゃんっ子」です。
生まれる前は誰もが男の子だと信じていたそうで、お腹には「たろう」と呼びかけていたのに出てきたのは女の子。父が吉永小百合さんのファン、いわゆるサユリストだったので、尼崎の工場町とよく似た舞台の『キューポラのある街』という映画で吉永さんが演じていたヒロインの「ジュン」から、潤と名付けたそうです。この字は男の子に多いので、よく男の子と間違われましたが、いつしかそれも個性に。今では「潤」の名前が大好きです。
<祖母との思い出>
父方の祖母は息子ばかりで娘がおらず、初孫で女の子のわたしを、とてもかわいがって育ててくれました。わたしは小さい頃から絵をかくのが大好きで、広告紙の裏に何枚も何枚も絵を描いたり、折り紙をしたりして遊びました。祖母はそれを捨てずに全部大切に保管してくれていました。
裁縫も編み物も料理も、祖母のかたわらで遊びながら覚えたように思います。両親が共働きでも寂しいと思ったことがないのは祖母のおかげです。祖母が漬物をつける横で学校の話をしたり、こたつで2人、ミカンを食べながら昔の話をよく聞いたりしました。
祖母は20年前に他界しましたが、亡くなる直前にわたしに長女が生まれ、祖母にひ孫を抱いてもらうことができました。わたしから祖母への恩返しだと思っています。
<引っ越して大庄地域に>
父と母はわたしが生まれて間もなく、母方の八百屋を継ぐことになりました。尼崎市の大庄地域で、戦後すぐに開場した西大島市場の老舗「大久青物店」です。当時の商店は、店主が品物を選んでお客に売るのが当たり前でしたが、「うちはお客が自分で品を手に取り、選ぶことができるセルフサービスをいち早く取り入れた店なんや」という先進的な店でした。昔の市場は本当にたくさんの買い物客でにぎわっていました。
わたしが小学校に上がるまでに、両親が働きやすいよう大庄地域に引っ越しました。本田診療所の近くです。当時のわたしはよく熱を出していたので、診療所にしょっちゅうお世話になりました。その頃の待合室は木の床で、歩くとギシギシ鳴り、冬は真ん中に石油ストーブが置いてあり、水銀の体温計で検温したのを覚えています。
近所の大庄新市場は毎日のお買い物、銀座通りは生活の道でした。今では診療所も二度の建て替えで立派になりました。銀座通りは子どもの頃に比べると小さくなったように感じますし、街並みも随分変わりましたが、それでも目を閉じても歩けるくらい大庄はわたしの「ホームグラウンド」です。
<夢は絵本画家>
わたしと、3つずつ離れた弟2人は、稲葉元町にあるゆりかご保育園に通いました。わたしが4歳で入園した時、今の園舎が完成しました。まだ工事中で養生されている所や、ホールの床がピカピカに光っていたのを覚えています。(はだし、薄着で、のびのびと毎日を楽しく過ごしたことが忘れられなくて、のちに自分の子ども達もゆりかご保育園に通わせてもらいました)。保育園の先生に「潤ちゃんは絵が上手だから絵本画家になるといいね」と言われてから、「絵本画家」がわたしの将来の夢になりました。
②:本格的な美術の道へ
<元気いっぱい小学校時代>
小学校は尼崎市立成文小学校。「はだし教育」に取り組む小学校でした。遊具だけでなく塀に上って歩いたり、短距離走や跳び箱が得意なところは保育園でのびのび育ったからでしょうか。男の子にも負けていませんでした。
1年生の夏休みに、自由研究で手作り絵本を出したのですが、翌年から「手作り絵本コンクール」が成文小の恒例行事になりました。大人になってから、「あれはあなたの絵本がきっかけだったんだよ」と恩師から聞いて驚きでした。
<人生初のジェンダーの壁>
2年生から美術部に。放課後にデッサンや想像画を描き、自分の世界に没頭する時間は、今思えば貴重です。
進路は、美術を専門に勉強できる美術科コースがあるという県立明石高校をめざし、合格しました。美術科9回生です。
美術を志す仲間や個性的な恩師に囲まれ、毎日勉学に励みました。尼崎の自宅から学校まで約2時間を、時には大きな画材を担いで電車に乗って通いました。熱が出た時も一晩で熱を下げて翌朝には登校したり、苦労もありましたが振り返れば楽しい思い出です。
高校でも生徒会に入り、文化祭や体育大会の企画運営に励んだり、形骸化していた生徒総会のあり方を見直したりしました。
卒業すぐに、明石市営バスに私のデザインが起用され、近年までそのバスが走っていました。
<背水の陣で公立芸大に>
わが家は自営業で下に弟2人がいる。経済的に公立大学しか受けられません。受験そのものに負けそうになりましたが、父の「大学は回り道のようだがそれも勉強のはず」という言葉に勇気をもらいました。
滑り止めで私立を受験してもどうせ学費が払えないので、京都市立芸術大学一本に絞り込み、「入試に落ちたら八百屋を手伝うしかない」と、背水の陣で受験に臨み、合格しました。大人になってから知人に「よく両親は芸術系への進路を認めてくれたね。わたしが親なら不安定な進路はやめてと言うわ」と言われ、あらためて両親がわたしを支え、夢を応援してくれている温かさに気づいたものです。
<人形劇団くまごろう>
わたしの子ども時代は、学校生活だけで語り切れません。重要なエピソードは「人形劇団くまごろう」の活動です。
両親が若いときに人形劇サークルで出会い、結婚してアマチュア人形劇団「くまごろう」の活動を続けていたところ、他のメンバーが減って2人だけになってしまいました。そこで私たち3人の子どもも「私もやる!」と人形劇に加わって、ファミリー劇団として5人で活動してきたのです。
平日は、両親は八百屋、子どもたちは学校。夜に眠い目をこすりながら稽古や人形作りをして、休日は地域のイベントやクリスマス会などに呼ばれて公演活動。繁忙期は毎週休み返上でしたが、家族で一つのことを協力して成し遂げるのは快感でした。
わたしたち子どもが成人し多忙になってからは、両親ふたりで活動を続けていますが、声がかかると手伝っています。他にはない、特別な家族の絆だと思っています。
おかげさまで今でも、大勢の人前に立っても、あがったり物おじせずにいられるのは、こうした活動の賜物だと思います。人生、何がどこで役に立つかわからないものです。
③:バリ舞踊をライフワークに
<下宿一泊目に震災>
京都市立芸術大学ではビジュアルデザインを専攻。尼崎からはるばる通っていましたが、課題制作や学生自治会活動で遠距離通学が負担になり、1年の学年末から下宿することになりました。
家族に引っ越しを手伝ってもらい、いよいよ初めての一人暮らし。戸締りやガスの元栓を閉めたかドキドキしながら確かめ、布団に入り眠りについたその夜明け。地面からゴゴゴ…という地鳴りのあと、ドンドンドンと床下から突き上げられました。阪神・淡路大震災です。布団にもぐり、「もうだめだ!」と思いました。
家族に連絡を取ろうにも電話もまだ引いておらず、携帯電話もない時代。テレビもなかったので、小さなラジカセからFM放送を聞くことしかできませんでした。
朝になってから大学に行き、公衆電話に並んで、何回もかけなおしてやっと連絡がついたのが午後2時過ぎ。幸い家族は無事でしたが、阪急電車も止まったまま。交通が復旧するまで帰省できず、神戸方面の出身者同士、励まし合って心細い期間を過ごしました。いったい何日間だったのか、とても長い間だったように思います。今でも地震の地鳴りが聞こえると手に汗がにじみます。
大学の学生自治会では会長を務めました。かつての学生運動の名残はあれど、私たちの世代は受け身世代。総会ともなれば出席者集めに四苦八苦です。それでも執行部で「自分たちが、まず楽しもう」と猿の仮装でそろえバナナを片手に総会を進行したり、新入生歓迎集会では三役が「京芸戦隊サンヤク」に扮したりと、学生に関心を持ってもらう工夫を凝らしました。
学生の要求を大学側と交渉することも経験しました。同期の聴覚障害の友人は、他の学生を煩わせることなく授業を受けられるよう、ノートテイカー(筆記係)を要求。学生自治会で声を上げ、有償ボランティア制度ができたときは皆で喜び合いました。
<バリ島との出会い>
わたしのプロフィールをご覧になった方は「バリ舞踊講師」という言葉に「?」となるでしょう。
実はわたしがインドネシア・バリ島に興味を抱いたのは中学生の時。美術の先生が貸してくださった「ケチャダンス」のカセットテープが強烈な印象を残しました。その後、大学生になってから京都でケチャ来日公演を観る機会を得てバリ島にすっかり魅了されてしまいました。
パスポートを取得しバリ島のリピーターに。田園広がるバリは昔の日本を思わせる懐かしさがあります。またバリヒンズーという独特の信仰を持ち、世界観や文化芸能、豊かな自然と人間の調和が魅力的です。舞踊の所作や動きは複雑で熟練を要します。まさか自分がやることになるとは……。
のちに日本にいてもバリに関わっていたい、という思いでバリ舞踊教室に通い始め、いつしか足掛け25年になろうとしています。趣味が高じてカルチャーセンターで講師を務め、公演活動も続けてきました。2015年にははじめて本場バリ島のアートフェスティバルで舞台を踏むことができました。
バリ舞踊はわたしのライフワークです。
<仕事は生きがい やめない>
卒業後は、京都でクラフトデザインのアルバイトや、垂水区で絵画塾の講師、明石・神戸・西宮などの県立高校で美術の非常勤講師など、特技を活かした仕事に就きました。
大学を出た翌年に結婚しましたが、仕事はわたしの生きがいです。妊娠・出産も仕事と両立させながら続けました。長女は尼崎医療生協病院で出産しました。
そのころ実家のある市場は閉店が増え、だんだんとシャッターが目立ち寂しくなり始めていました。「なにか人の集まる面白いことをしよう」と八百屋の店舗を改装し、「アトリエくぅ」をオープンし創作教室を始めました。子どもの図画工作やクッキング、高齢者の絵手紙などでにぎわうユニークな場となりました。
④:誰もが自分らしく輝ける社会をめざして
<保護者会活動は「楽しく」>
子どもは3人授かりました。わたしが卒園したゆりかご保育園にわが子もお世話になり、保育園への恩返しの気持ちもあって父母の会役員を末っ子の卒園まで続けました。署名運動や全国集会など尼崎保育運動連絡会(尼保連)の保育要求運動にも参加し、子どもや保育をめぐる情勢について知りました。保育園の保護者は共働きで、誰もが子育てと仕事の両立に奮闘する仲間。授乳しながら、おむつを替えながら一緒に頑張った父母同士の絆は今でも続いています。
子どもたちが学校に上がると、PTA活動にも参加しました。PTAを負担に感じる人も多いですが、わたしはそうは思いません。嫌々くじを引くより、やるなら自分の意志で、楽しめる活動を作りたい。その思いで執行部に入り、またもや会長を務めました。やらされているのではなく、親ができること、やりたいことをやる親の活動=「オヤ活」と名付けました。とはいえ、共働きやシングル家庭が増え、平日昼間の活動は参加率が低い実態がありました。会議を減らす、メールをうまく使う、時間帯を変えるなど知恵を出し合い、見直しを積極的に進めました。
大島小学校では校内の駐輪スペースが狭く、参観日などでは保護者の自転車が殺到し課題になっていました。なんとか楽しく、皆が気持ちよく協力し合える方法をと、PTAで考えたのが「チャリンコNO=ノーチャーリーデー」運動です。子どもたちにもマスコットキャラクターのデザインを募集。子どもたちからノーチャーリーに愛着をもち、保護者に発信してもらおうという思いでした。事前周知も徹底し次の図工展では、なんと無許可の自転車はゼロ台。「心を込めて伝えればわかってもらえるんだ、やればできるんだ」と感動した瞬間でした。
<黙っていてはいけないと>
両親はそれぞれ20代独身の時からの党員ですから、わたしも日本共産党には親しんで育ってきました。とはいえ、物心ついた頃には「共産党を除く」壁の時代です。はじめに入党のお誘いを受けたときには、中立な立場で活動するPTAの会長でもあり、お断りをしたものです。
しかし、憲法を変えようとする、安保法制を無理矢理におし通そうとする政治のひどさにSEALDsやママの会が声をあげ始めたのを見たとき、「傍観していては安保法制に賛成したのと同じ。黙っていてはいけない」と感じ、2013年に入党を決意しました。
2016年、翌年の尼崎市議選へのお誘いを受けました。人生80年とすれば折り返しの40歳。これからどう生きるか考えていた頃でした。尼崎市では、子どもたちが利用していた市民プールが突然廃止になったり、児童館がなくされたりと、子どもたちや市民の思いそっちのけの行政に悔しさと憤りを感じてきました。保育運動やPTA活動などで経験してきたことが活かせるのであれば、と市議選への挑戦を決意しました。
あとで母から「大阪の国会議員をしていた村上弘さんはうちの親戚だよ。わたしが子どものとき、店の2階に身を寄せていたことがあったよ」と聞きました。母方の祖父母は広島の因島出身。弘さんが第3代日本共産党委員長と知り、さらに驚きです。
<力合わせ政治を変えよう>
若い母親の声を市政に、と尼崎市議におし上げていただき、初当選。
2017年9月の議会では、「LGBTなど性の多様性認める取り組みを」と初質問。文教委員会では通学カバンの重さ軽減の提案や、安全な中学校給食の早期実現を求めてきました。児童虐待問題や総合治水計画など課題は残りますが、市政だけでは解決できないこともあります。
地方や国民いじめの国の政治を変えたい。憲法改悪をくい止め、誰もが人間らしく尊厳をもって自分らしく輝ける社会を実現したいと、国政への挑戦を決意しました。
「力を合わせれば、政治は変わるんだ」と同世代や若い人たちへと輪を広げていきたいと思っています。